パッと見た時に、外見だけで障害があるって分かる人と分からない人がいる。
例えばうちの息子は、「分かる」ほうだ。
24時間酸素吸入が必要だから、外出時も酸素ボンベを携帯しているからだ。
疲れた場合や、歩く距離が長くなるとき・歩く時間が長くなるときは最初から車椅子に乗ることも多い。
目的地に到着して車椅子から降りて自分で歩きはじめると「歩けるやん!」みたいな目で見られることはあるが、それでも酸素ボンベを携帯しているので『あの機器はなんぞや』ということが分からない人でもなんとなく「なにかしら病気なんだろうな」と雰囲気で察してもらえる。
コロナ期を経て、酸素飽和度とか酸素ボンベとか酸素吸入ってもんの存在を知った人も多いと思う。
ジロジロ見られるのが嫌な気持ちになることは昔も今も変わらないが、多くの人は悪意があって見ているわけではなくて「あれはなんだろう」と、見慣れないモノに対する興味や好奇心で見ていることは分かっているのでまぁしゃーないよな、知らんもんね、と思っている。
息子は小6だというのにいまだに人あたりがよく、誰にでもニコニコするし超愛嬌があって礼儀も正しくて丁寧に敬語でお礼を言ったりもするので、ご飯を食べに行ったりお買い物に行ったりしても店員さんにとても可愛がられる。
体格が小さいので恐らく小1くらいに思われているのもラッキーだ。
先日お気に入りのお寿司屋さんへいったとき、幼児用のカトラリーが自然に息子に提供されて夫氏と顔を見合わせて笑ってしまった(笑)
可愛すぎるだろもう!いつまでも可愛いままでいてくれ。ヒゲなんて生えないでくれ。陰毛なんて生えてきたらママ泣くぞ。あんな邪魔なもんはない。
とりあえず、ジロジロ以外はそんな嫌な思いはしないで済んでいる。
それもこれも「目に見える」障害だからだ。
ジロジロ嫌だけどね。
だがもし息子の心臓手術がスムーズに進み成功していたのなら、外見だけでは一切病気がわからない障害児となっていた。
どちらが良い悪いとかそういう話ではなく、どちらにも大変な部分があるということだ。
目に見えないと、病気なのに相手からの理解を得るのに時間がかかってしまったり、勇気を出して説明しても理解そのものを得ることもできなかったりする。
障害があることを知られたくないと本人が思っているのなら別に放置したら良いと思うが、周りからの理解があることが生活のしやすさにつながる人にとっては結構大変だと思っている。
心臓病でいえば、見た目は健康だがとても疲れやすかったりして優先席に座りたい。
でも、見た目が健康だから「お前なに優先席に座ってんだよ」の視線もあるし直接言われることもある。
精神的にこれはかなりキツイ。
そのため、仕事をするにしてもスゴくしんどいのにムリする人も多いのだ。
もちろんそれは体にとって良いことでは全くない。
というかよくないことだ。
それで入院になる人もたくさんいる。
ヘルプマークが少しずつ浸透してきているとはいえ、つらい思いをすることはまだまだある。
人工肛門を付けている人なんかもそうだろう。
オストメイトといっても聞きなれない人が多いはずだ。
多目的トイレを使っていたら白い目で見られることだってあると思う。
手のかかるタイプの発達障害児の親御さんもすごく大変だと思う。
街中で突然叫んだり、幼稚園で友達や先生に手を出してしまったり、公共施設で大泣きして床から動かなかったり(大の字大泣きとか幼少期の私やん)。
外見では分からないから「親のしつけがなってないからだ」という目で見られるしそういう評価をされるし、周りに頭を下げるばかりの日々で疲弊してしまうはずだ。
発達障害という言葉が浸透してきた最近でも、その言葉を「理解」のために使うというよりは「あいつ、発達障害じゃね?」「アスペじゃね?」みたいな、結局は蔑んだりバカにしたりような使われかたをしていることもとても多い。
当事者からしてみたらこれはかなりキツイ。
我が子の事は大好きなのにどう対応したら良いのか分からなかったり、絶望の中で療育へ通ったり自宅でもできることを必死に手探りで行っている中で心無い言葉がけや避けられるような行動は、確実に心を傷付けていくし孤立感や孤独感を深めさせていく。
手のかかる私を完全放置した私の実母のように、心臓に毛が生えてる「自分が一番!」みたいな人間なら別に気にしないが、子供のことを想う気持ちが強く責任感がある人ほど自分を追い込んでいくんだと私は思っている。
障害を持って産んでしまったことそのものにすごく責任を感じてゴメンねの気持ちをずっと抱えた状態で、少し気を抜いたら倒れてしまいそうな中でそれでも子供のために踏ん張って(踏ん張るしかなくて)何とか前を向いて笑顔で過ごしているところに、周りからの責めがあるともう「ぽきっ」と心が折れそうになることがある。
私は息子を産んだ日と翌日、実母から「子供が障害を持って産まれた原因」を追求され責められた。
切迫流産はあったり切迫早産の危険はあったためほとんどが安静にしていたマタニティ期間だったが、お腹の中の息子は何も指摘されることなくスクスク元気に育ち39週に自然分娩で生まれてきた。
だが、分娩後に息子のサチュレーションが40台を切るくらいまでになり救急車で専門病院へ搬送されたのだ。
まだ私は分娩台に乗っていた状態で息子を乗せた救急車のサイレン音だけが遠ざかっていった時、それが現実なのか夢なのか分からなくなったほどだ。
そして病室へ戻ってからは後陣痛による激痛に悶えていた。
我慢できなかったら飲んでねと医師から処方された鎮痛剤を飲もうとすると、「そうやって薬を飲むのが赤ちゃんに良くなかったんじゃないの?」と実母から責められた。
お腹の張り止め薬など産科医から処方されたものを飲んでいたのだが、そういうのを飲んでいたアンタのせいで赤ちゃんが搬送されるようなことになったんだろうということだ。
マジで失せろよと思ったよほんと。
飲んでも大丈夫だって医者が言ってんだよ、お前は医者じゃないだろ。ただの歩く家庭の医学だろうが。
分娩で身体が大ダメージ受けて、周りのお母さんたちが元気に生まれた新生児たちとイチャイチャする姿を見るのがつらくて、そんな中で更にメンタル追い詰めて何が楽しいんだよって。
障害児者に投げられる揶揄したりバカにしたりするような言動は、これと同じだろうと私は思っている。
これ以上責めてなにか楽しいのか?それがお前のストレス解消法なのか?
って思う。
私が一番私を責めてんだよ。
たとえば暴力をふるってくるタイプの人を避けるのは分かる。
私だってこわい。
以前療育施設に行った時、息子の友達の女の子(当時未就学児)の隣に突然座り、その女の子の髪の毛をねっとり何度も撫でて「かわいいねぇ」と連呼してきた男の子がいた。
中学生くらいの男の子だったが、女の子はとても気味悪がっていた。
そして、真横にいた息子には見向きもしない。
息子には挨拶すらしてこない。
女の子のことしか眼中にないのだ。
私は「これはあかんやつだ」とスグに思った。
でも、変な形で引き離すと息子や女の子に何をされるか分からないと思った。
そういう雰囲気が男の子から伝わってきたのだ。
申し訳ないがこれが正直な気持ちだし、私の中の動物的な勘が「この子は危ない」と警鐘を鳴らしていた。
「さっきママが呼んでたよ」と女の子に嘘をついて場所を移動させた。
中学生(ぽい)男の子は私の事をジロリと睨んだ。
この男の子がどんな障害を持っていたかは分からない。
色んな病気を持つ人が通う施設だし知らない子だから本当に分からなかったし今でも分からない。
そのような施設に来ているということは親御さんがなんとかケアやフォローしようとしているからだろうと思っている。
他の誰かに危害を加えてしまったとき、それが「障害だから」「病気だから」と許されたり罪が軽くなるのは私はナシだと思っている。
被害者の立場になれば当たり前の感覚だろう。
でも、そうならないように、社会全体がもっと理解を深めて本人の発達・成長や家族のフォローをしてあげられる体制をもっと整えないといけないんじゃないかと感じている。
あとはさ、優しくない人が多いよね。
車椅子の人がエレベーター乗れない問題でもそうだけどさ、譲らないじゃん。
自分が降りて「どうぞ」って言うだけのことがなんでできないんだろうって思う。
たくましく付いてるその2本の足で歩けよな。
痩せるぞ。
満員電車の乗り降りで押されて倒れた人がいてもみんなシカトじゃん。
誰も声をかけたり助けてあげようともしないじゃん。
私は高校時代金髪の黒ギャルだったってプロフィールにも書いてるけど、外見は悪くても困ってる人たすけるとか当たり前のこと当たり前にやってたよ?
誰かからの評価なんて得られないし褒めてもらえるわけでもないしお金だってもらえないし別にメリットなんてないよ。
でもさ、優しさって見返りじゃないからねマジで。
そこに損得勘定持ち込んでくる時点でアウトなんだよ。
結局のところさ、優しくない人や思いやりのない人が多いんだよ。
(夫婦間もそうだけど)
おおもとの問題ってソコだよね。
って、私は日々思ってる。