むすこ むすこ亡き後 夢に出てきたむすこ

息子と、国民的ベテラン俳優

息子が亡くなってから、最初に夢に出てきてくれるまでに16日の間があった。

「息子ちゃん、他の人たちの夢にはどんどん出てるのに、ママの夢には全然出てきてくんないじゃ~ん」と言っていたので、ようやくという感じではあった。

1回目は生前の姿・形で、生前によく見かけた状況だった。

大好きなドリルを楽しんでとても集中していて、「あぁ、息子ちゃんだ」「うんうん。ドリルやってるね」と生前と同じような空間で息子を見守っているシーン。

そのシーンが突然変わり、私の目の前にベテラン俳優さんが座って息子の事をとても褒めてくれている場面になった。

嫌いなわけでもないが特別すごく好きな俳優さんでもなく、なぜその俳優さんが出てきたのかは今でも不明である。

その俳優さんと話している最中、息子が最初からその場にいなかったことに気付き、私は俳優さんそっちのけで急いで探し始めた。

国民的人気ベテラン俳優さんも、愛する息子の前ではもはやどうでもいいただのオジサンだ。

会話の最後らへんは育児アドバイスや息子の改善点を話し始めていたため、ただのオジサンというよりも面倒くさいオジサンになりかけていた。

するとトイレから息子の泣き声が聞こえてきた。

「おおおーーーん」「おおおおおおーーん」

赤ちゃんの頃から13歳まで変わらない、いつも通りの泣きかただ。

赤ちゃんの頃と変わらない泣きかたの中学二年生というのもすごいものである。

お急ぎでトイレへ向かいドアをあけると、「痛いよ~ママ痛い~」と大泣きする息子が便座に座っていた。

トイレで痛みを訴えて泣いていたり、脚などどこかしらが痛くて「おーーん、おーーーん」と泣くことが実際に生前多かった。

急いで息子に近づき、痛みをなんとかしてあげようとするところで夢が終わってしまった。

「息子ちゃんのことは絶対にママが守るからね!息子ちゃんが痛くないように、ママ、先生にお願いするからね!心配ないよ!」

「パパとママと息子ちゃん、ずーっとずーっと3人一緒だからね、心配ないよ!」

生前、何度も何度も息子にかけ続けた言葉だった。

この言葉を聞くたびに息子は安心したようにニッコリ微笑み、「ママに任せておけば絶対に大丈夫、ママがなんとかしてくれる」という絶対的信頼をおいてくれた。

・・・私はその約束を守れなかった。

パパとママと離れるのを一番恐怖に感じていた息子を1人で逝かせてしまったし、痛みや苦しみだって完全にゼロにはしてあげられなかった。

難しいとされる心不全の緩和ケアを在宅で上手にコントロールしてもらったものの、それでも流石に最後のほうはしんどさがゼロにはならなかった。

相当なレベルで軽減されていたはずだが、それでも息子からしてみたら「ママなんで?ボク言われたことちゃんとやってるよ。こんなに頑張ってるよ。どうして良くならないの?なんでまた悪いところが出てくるの?ボクもっとやりたいこと食べたいものあるからこんなに頑張ってきてるよ。」そう思っていたはずだ。

実際、「ボクちゃんと頑張っているのに、言われたことやっているのに、どうしてかなぁ・・・。困ったなぁ・・・。」と言っていた。

病気に対する不満も、親に対する八つ当たりも、他者との比較によって自分を卑下することも、何一つない子だった。

ただ素直に自分の病気を受け入れ、ただ素直に言われたことを実践した。

言われたとおりにすればまた元気になれると、ただそれだけを素直に信じて。

いつも前向きな子だった。

いつも誰にでも笑顔で優しくて、とにかく周りから愛される子で、会話が上手なわけでも聞くのが上手いわけでもないのに常に周りの人たちを惹きつける子だった。

そんな、ただただ純粋に素直に親や先生や看護師さんたち皆を心の底から信じて頑張った息子を助けられなかった・約束を守ってあげられなかった悔しさや心残りが、私の夢となって表れたのかもしれない。

セカンドオピニオンもした。

居住地から遠く離れた病院へ転院もした。

全国に情報提供も求めた。

先生たちと何度も何度も話し合い、息子に寄り添った言動ではないドクターとは何度もバトルもした。

料理は好きでもないし苦手だが、食事療法も頑張った。素材にもこだわった。

付き添い入院は基本的にNGの病院であったが、集中治療室以外の入院の際は必ず24時間付き添い入院を希望し許可をもらっていた。心の状態が体に大きな影響を与えると信じているからだ。

考えられる方法は、移植以外は全て試した。

それでも、治療法の確立されていない合併症を克服することはできなかった。

調子を崩してからおよそ5か月後の早朝、とっくに限界を超えながらも必死に力を振り絞って動き続けてくれていた息子の身体の電源が静かに切れた。

とはいえ、現代医学において13年9ヶ月も体がもったほうが奇跡だった。

この合併症自体7年ほど前に既に発症していたし、それ以前の4歳の頃にはすでに「なぜ動けているのか、どうしてこんな元気に過ごせているのか、医師として信じがたい。」

そう言われていたくらいだったのだ。

現代の西洋医学ではまだ解明されていない人体の神秘や、人並み外れていた息子の高い精神力があってこそ13年9ヶ月も生き抜くことができたのだと感じている。

合併症そのものも国の指定難病だが、もともと持って生まれた病名も「いくつ指定難病を重複でもってますねん」というくらい指定難病っ子だった。

指定難病の申し子と言っても過言ではないほど指定難病持ちだった。

その体が13年9ヶ月も生きてくれた、動き続けてくれたのである。

その体で、多くの医療者が驚くような奇跡を何度も連発してくれた。

もちろん医師はじめ多くのかたの手助けもあってこそ。

感謝してもしきれないのに、人というのはなぜこうも欲深いのか・・・。

もっと一緒にいたかった。

もっといろんな美味しいものを食べさせてあげたかった。

もっともっとワガママをさせてあげたかった。

どうしてもっと心に余裕のある優しいママでいてあげられなかったのか。

パパとママが大好きな息子を1人ぼっちで逝かせたくはなかった。

考えればどれだけだって欲と悔いが出てくる。

この悔いが少しでもゼロに近づくようにと赤ちゃんの頃から毎日を過ごしてきたつもりだが、それでも嫌というほどに後悔が出てきてしまう。

私自身の人生のことではないから尚更である。

ただ、この悔いと欲が頭の中を支配しはじめるとふと思い出す。

息子はいつだって「今」を生きていた。

ひたすらに「今」を一生懸命に生きていたから、息子の目の前にはどんどん明るい道が出来ていったし沢山の人がどんどん手を差し伸べてくれた。

13年9ヶ月、小さな体で必死に「今」を生ききった・走りぬいたじゃないか。

それなのに、いまこの瞬間の私は「今」ではなく「過去」を生きている。

どうやったって二度と変えることのできない過去の思いの中を漂って、今から目を逸らしているではないか。

「ママいけないね。困ったママだね。」

私自身に向けてよく言っていたこの言葉を、息子は可愛らしい優しい声で真似して言っていた。

そして

「大丈夫大丈夫。ママ元気になあれ~~」とも言ってくれていた。

「困ったママだねぇ~」

そう言われないように、息子が大好きでいてくれた笑顔のママでいられるように、過去を生きることはせず「今」を生きようと気持ちを切り替えている。

あと何年か、もしくはあと何十年かもすれば、私も息子のところへ自動的に行けるのだ。

「死」だけは、全ての生命に平等に与えられているものだから。

それまでの時間を、私はどう生きるのか。

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藤子

散文家。2025年、13歳の息子を自宅で看取った昭和57年生まれ。おしゃべりな脳を、散文に。

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