小学生時代 不思議な体験

山の神様

子供のころ、父に連れられてよく山に登っていた。

「よく」と言っても恐らく年に1回程度なのだろうが、2,000~3,000メートルほどの山をテント泊しながら小学生の子が登るのだ。

年に1回行くだけでもすごいことだろうし、最後に記憶があるのは高校2年生。

父と2人で毎日7~10時間歩く3泊4日テント泊の登山だから「よく」と言っても誰も怒らないし迷惑にもならないだろう。

小学生の頃は兄も一緒に登っていた記憶がある。

こと登山に関しては、運動神経の良い兄よりも私のほうが楽しみながら参加していたように思う。

とはいえトータルでは楽しい登山も、起床後の絶望はもれなくセットで感じていた。

「またこれから1日かけて歩くのか・・・」と。

地上界での生活においては兄の方が圧倒的に我慢強く、家族や世間からの評判もよかったため、「こと登山に関しては」という記憶ももしかしたら私の「1つくらい兄よりいいところが自分にあって欲しい」という願いが、さも存在するかのようになっている可能性は否定できない。

だがやはり何度思い返しても、天上界へ近づく登山は、私の方が陽気かつ能天気であったように思われる。

母に関しては一緒に登山をしたという記憶がほとんどない。

ハイキング程度の登山を家族皆で一緒にしたというくらいだ。

父プロデュースの登山では、山小屋に泊まれないしシャワーを浴びることもできないことが嫌だと母はよく言っていた。

母も兄も運動神経がかなり良く異常なほどに体力もあることから「登山に向いていないフィジカル」ではないと思うのだが、きっとフィジカルの問題ではなくメンタルの問題なのだろう。

私はというと、歩みを進めるたびに父が教えてくれる高山植物を見たり熊の爪痕をみたり、蛇と勘違いして木の枝にビビり倒す父を見るのが面白かった。

白山に登った時などは、ひたすらブナの実を拾い集めながら歩いていた。

異常なまでに切手を集めていたこともあるし、ブナに関してもなぜブナの実を大量に拾って帰ろうと思ったのか自分でも分からない。

幼稚園児であればまだ分かるが、小学校3年生4年生になってまでブナの実をせっせと拾い集めて私は一体なにをしたかったのだろうか。

とにかくそんな感じでその時その時の登山を楽しんでいた。

野グソをする時に後ろから獣に襲われないかが心配だったし、草がお尻にあたってチクチクするのだけは嫌だった。

登山ブームではなかったからなのか、はたまた父が選んだルートのおかげなのか、人とすれ違うということが頻繁ではなかった。

山頂までいけばある程度人がいたとしても、富士登山のようにゾロゾロと前にも後ろにも人がいるような登山は経験がないししたいとも思わない。

ごくごくたまにすれ違って挨拶をする程度だ。

いま思えば、人混みや都会が苦手な私が山を好んだのは当然だと思う。

人が多い場所へ行くと気分が悪くなってしまうのだ。

人混みや都会が実は苦手なのだと気付いたのは大学生になり上京してからなのだが、振り返ってみると小さい頃から一人遊びが好きで頭の中でマイワールドを作り上げながら楽しんでいた。

「友達がいないというのは可哀想な人だし嫌われている証拠で人としてダメなのだ」

「周りに意見も思考も合わせ、言いたいことは我慢して多くの人に好かれることこそが素晴らしい行いなのだ」という刷り込み教育により、人気者の仮面をかぶるべく一生懸命頑張っていただけだった。

中学になると同級生から「変人」と言われるようにもなったが、私のどこを見て「変人」と言うのかは分からなかった。

私が発した言葉に反応して「変人だよね~」と言われたので容姿でないのだけは確かである。

中学校の来賓用玄関に飾ってあったロダンの「考える人」像の隣に座り、休み時間中ずっと考える人像と同じポーズで微動だにしなかった同級生の男の子のほうがよっぽど変人だと私は今でも思っている。

そういうことで、ホモサピエンスが限りなく少ない「山」という自然の中で、木々の葉が擦れる音や誰もいないはずなのに小枝が踏まれた時のパキっという音がする空間や、一つとして同じ音ではない風音を聞くのが好きだった。

宿題残ってるなぁとか、夏休みのラジオ体操まだ1回も行けてないやぁとか、新学期始まるの嫌だなぁとか、余計な思考が全て消え去り、ただただ自然の一部になったように歓迎されているような同化した気持ちになれた。

父が近くにいすぎると同化が難しかったため、あえて父と少しだけ距離をとって歩きながら自然同化ごっこをするのもまた楽しいものだった。

考える人像と同化していたあの男の子も同じ気持ちだったのだろうか。

校舎の廊下を折れ曲がって来賓用玄関が目に入ってきたと同時に、考える人像と同化している男子を発見した私と友人は、予想だにしない状況に耐えられず瞬時に膝から崩れ落ちて大笑いした。

人間、膝から崩れ落ちるということが本当にあるのだと教えてくれたのも彼だった。

私たちが大笑いしようとも、ロダンの彼は微動だにしなかった。

さすがである。

そんな相変わらずの陽気な気持ちで参加したある年の登山。

登山と言っても母が参加していた登山なので、大した登山ではない。

父との登山のようにドでかいリュックにたくさん荷物を入れるようなものではなく、小学生だった私は手荷物すらも持っていた記憶がない。

圧倒的軽装備で参加できるほどの山登り中にそれは起こった。

その時の登山道はザ・登山道というよりも、車もラクに通れてしまえるのではと思うほどの道だった。

とつぜん私は1人走り出した。

みんな遅いから先に行ってしまえ~という、クラスに1人はいる後先考えずに行動する頭の弱い子さながらの動きである。

どれだけ走ったのか分からない。

「ここまでこれば良いだろう。」と足を止めた。

一体なにが「良いだろう」なのか、皆目見当もつかない。

突発的に動く人間というのは本当に恐ろしいものである。

そして、私はすごいだろうというドヤ顔で振り返って家族を待った。

すごい早ねぇ!と褒めて欲しかったのだろうか。

我ながら、つまらない事を考えるものだ。

しかし、待てど暮らせど家族の姿が見えてこない。

自分の呼吸音以外は自然の音しかしない。

好きだったはずのそれらが、だんだんと恐ろしくなってきた。

父と一緒だった登山は、父が一緒だったから安心して楽しめていたのだとその時はじめて気が付いた。

上を見上げれば木々の隙間から雲一つないキレイな青空が覗いているのだが、それが余計に自分の小ささと心細さを増大させた。

「一本道だったと思うんだけど・・・もしかしたらどこかで分かれ道があって間違えた・・・?」

だんだんと不安や焦りがでてくる。

このまま動かずに待つか、もと来た道を引き返すか。

あまりにキョロキョロし過ぎてしまい、似たような景色が続く道だったことも焦りもあって、どちら側がもと来た道かも判断できなくなってきていた。

確かこっちから来たはず・・・。でも、あれ、待って。違うかも。あっちから来たっけ。

・・・とりあえず歩こう。

ジッとしているのが苦手な私は、動き出す選択をした。

そのときだった。

歩き出す前にふと視界にとびこんできた森の奥深くから、異様な圧力のようなものを感じた。

こっちに来るな。

言葉に変わった重い音のような・感情のプレッシャーのような空気の歪みが、森の奥の薄闇のなかから私の方へ向かって放たれているのを感じた。

辺りの空気が一気に重くなり、キーーーーーーーーーンという音が耳に鳴り響き、それまでに感じていた一人ぼっちの心細さとは全く異なる次元の恐ろしさであること・あちらへ行ってはいけないとの直観が働いた。

「山は神様」

山岳信仰について父がたびたび話をしてくれていた。

「山岳信仰」という言葉は使っていなかったものの、人形山の伝説ももちろん教わっていたし、山の神様は女性というのも聞いた記憶がある。

細かい部分は覚えていないけれど、神様が住んでいる山を大切に、自然を大切にしなくてはいけないことだけは幼いながらに心にしっかりと刻まれていた。

女の私が山にきたから神様を怒らせてしまったのかもしれない。

森の奥からの重い圧に恐怖し立ちすくんだ私は、神様が怒って「こっちへ来るな」と言っているのだと思った。

我が家はこれといった特定の宗教を信仰しているわけではないごく一般的な日本の家庭だ。

お葬式にはお坊さんがくるし仏壇もあるけど、新年には神社へお参りへ行くしといった感じである。

父から話を聞いていたとしても年中言われていたわけでもない中で、それでも瞬時に「山の神様だ」と直観で感じ取ったのはとても不思議なことだと今でも思う。

けれどあの経験をすれば、皆おなじように「目には見えないなにか不思議な力」を確実に感じるはずだしきっと「来るな」という声も聞こえるはずだ。

実際に「来るな」という音として耳に入ったわけではないのだが、でも、「来るな」という感情が頭に流れ込んでくる不思議な感覚だった。

歩き出すことを決めたはずの私は、神様に怒られたと思ったまま怖さで立ちすくんでいた。

そうこうしていると、家族の声が遠くから聞こえてきた。

ゾロゾロと遠くの方から楽しそうに歩いてきたのだ。

重く歪に感じていたその場の空気が、ほわんと温かみを帯びた優しいそれに戻ったのがわかった。

家族と合流できたことに心からホッとしたし、ただの恐ろしい出来事という記憶になっていたが、実のところあれは、山に住む自然の神様たちが私を守ってくれたんじゃないかと今では思う。

あそこで強く止めてもらえていなかったら、歩き出した私はきっと山の奥深くに迷い込んでいたはずだから。

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藤子

散文家。2025年、13歳の息子を自宅で看取った昭和57年生まれ。おしゃべりな脳を、散文に。

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