いつか自給自足生活がしたいと思いながら私は日々を過ごしている。
「自給自足生活」と聞くと、お金があまりかからないというイメージがある。
実際そうなのかもしれないし、お金がかからないから自給自足生活をしたいという人も中にはいると思う。
しかし私が自給自足生活をしたいのはお金の問題からではない。
我が家は私を含めて4人家族(3人と1匹)だが、どちらかといえば裕福なほうだと思う。
夫が突然会社を辞めたとしても生活は全く困らない。
夫の実家も私の実家も、親兄弟含めて皆裕福なほうだと思う。
ではなぜ、わざわざ便利でラクな生活を捨てて自給自足生活をしたいと感じるのか。
合わないからである。
生活が合わないと言えばよいのか、社会と合わない言えば良いのか。
とにかく気持ちが疲れる。
人疲れ・街疲れ。
更に言うと、お金を出せばほとんどのものを手に入れられるという状態になったときふと感じたのは、喜びでもなく達成感でもなく虚しさだけだった。
お金はたくさん持っている。
だからお金さえ払えば、売られているものであれば何でも手に入れられることができた。
でもこの「お金」という人間が作り出した紙切れが価値を失ったとき、命をつなぐために私はなにが出来る?
何もできない、ということに気付いてしまった。
そしてそれは、生きている者として不自然な気がしてならなかった。
素潜りして銛で魚を捕るのは得意だ。
魚も人並みにはさばける。
蛇やカエルを食すのも好きだ。
実家が暖炉だったため薪割りも問題ない。
柴や薪を使った火起こしも出来るが、マッチやライターが手元になければつけられない。
お野菜を作るための知識もないし、食べられる野草も分からない。
少しだけ高山植物と山菜を知っているレベルだ。
ここまで書いた、出来ることのほぼすべてが10代前半の頃に身につけたものだ。
DIYはそこそこ出来るが、住まいを作れるほどの技術や知識はあるかといったら答えはノーだ。
人間以外の動物たちは自らの力で、そして人間が破壊し続けている自然の中でも逞しく生きているのに。
私はというと、人が作ったものをお金を出して買うことで生きながらえている。
「もう数が少ないから食べ物は売らないよ。自分の分がなくなっちゃうからね。」と言われたら餓死するしかないのだ。
また今の生活には、自然の中にある草木や虫と遊んでいた子供時代の歓びはどこにもなく、毎年父についていった登山での達成感や後から思い返した時の面白さもない。
コンクリートジャングルの中での生活で自分を着飾って大きく見せていた時期もあるが、高揚感はその場限りでなんだかいつも心が疲れていた。
大勢の人間と喋るのもまた、とてつもなく疲れる行為だった。
良い学校へ進学し有名な会社に入り高給取りとなる事が幸せな人生なんだとすりこまれながら育ってきたこともあってか、薄々勘づきながらも「自分にはこの生活は合わないんだ」「ここでは生きている歓びを感じられないんだ」と認めるまでに随分と時間がかかってしまった。
自給自足生活をしたいと強く願うようになった理由はこんな感じで多少複雑に絡まり合ってはいるが、ざっくりまとめるとこうなるだろうか。
・自らの手で作ったり直す事で、自然の一部として生きている歓びや楽しさを感じたい
・お金の価値がゼロになっても市場から物が消えても、そこまで影響を受けることなく生き延びることができる生活基盤を作りたい
そんなことを考えていると、「これって、昔の人は当たり前にしていた生活だな」という事に気がつく。
とはいえ「昔」ってどこまで昔を目指すのか。
江戸時代?
飛鳥?平安?ここまでくると、もはやどんな生活をしていたかも定かではない。
どの時代まで遡れば良いのかは分からないけれど、少なくとも95歳くらいになる私の祖母は自給自足生活に必要なスキルをほぼ全て持っていると思われる。
・養鶏養豚経験あり、鶏をしめてさばくこともできる
・家を0から建てられる
・家具も0から作れる
・洋裁和裁あみもの等全てできるしプロ級(文化服装学院卒)
・料理プロ級
・様々な保存食作りもプロ級
・自宅の畑で立派なお野菜作れる
物は増えて豊かになったように見える生活だけれど、その生活を維持するために好きでもない仕事で神経を擦り減らし、そうして溜めたストレスを発散するためにお金を使い、無理がたたって病気になり治療費にお金が消える。
私にとっては、とてつもなく不思議で不自然な光景である。
このブログには、いつか自給自足生活が出来ることを夢見て、できることからトライする日常を綴っていく。