むすこ亡き後 不思議な体験

亡き息子からのメッセージ

息子が亡くなってから、「不思議な事」が起こっている。

息子が生きていた時も息子が生まれていない時であっても「不思議な事」というのは起こっていたので、息子が亡くなったから不思議な事が起こるようになったというよりも「この不思議は息子が起こしてくれているのではないか」といったほうが私の中では正しい感覚である。

息子からのメッセージかなと思った出来事の一つに、「歌でメッセージを伝える」というのがある。

「歌でメッセージを伝える」などと文字にしてしまうと単なるお祭り人間のようなチープな感じになってしまうのだが、そうではない。

息子が亡くなってから初めて迎えた5月5日こどもの日の夕方、シャワーを終えて化粧水パックをつけた私は、パックが終わるまでの暇つぶしにスマホでも見ていようとスマホを探した。

キッチンの棚の上にあったスマホを手に取りロックを解除したところ、音楽アプリであるSpotify(スポティファイ)が画面いっぱいにうつしだされた。

私は車に乗るとき以外Spotifyを使うことがなく最後に車に乗ってからも3日以上経過していたのに、アプリが勝手に立ち上がっていたのだ。

そんなことは今まで一度もなく、あれっ・・・と思った一瞬ののち、ある歌が途中で停止になっている状態であることに気が付いた。

Adoの「永遠のあくる日」という歌である。

AdoはたまにSpotifyで聴いていたし、息子もAdoのことを特別好きというわけでもないが「ママが聴いてる」という意味で知っていた。

確かに私が最後に車内で聴いていたのもAdoだったが、Adoを聞くときは歌詞を聴きたいわけではなくメロディーを楽しみたいから聴いていたことから「歌詞」に注目したことがなかった。

メロディーが好きだとしても曲名までわざわざ覚えようとまではしていなかったので、曲名だけ見てもメロディーが出てこないことも当たり前にあった。

そのため「永遠のあくる日」が目の前にうつしだされても、どんな曲か思い出せなかったし歌詞が浮かんでくるはずもなかった。

息子がやったのかな・・・?

そう思い、再生停止状態になっている「永遠のあくる日」を再生させてみた。

すると、スマホから「あいしてる」という言葉が何度も何度も響いてきたのだ。

私は少し驚いて、歌詞を表示させた。

「あいしてる」の間に散りばめられている歌詞も、息子のこと・息子への想いにリンクすることころがあった。

なぜ君がここにいないんだろう

まるで映画のエンドロールだったな

最後の君の笑顔は

そして最後にこの言葉で締めくくられていた。

それでもぼくらはあいしてる あいしてる あいしてる

懲りずに飽きずに

Love Love Love Love Love Love

あいしてる

お腹の中に来てくれてからずっとずっと生活の中心で私の全てだった息子が目の前からいなくなった生活に

「なぜ君が(息子ちゃんが)ここにいないんだろう」

そう思った時期もあった。

亡くなる前日の夕方、夜ご飯は息子ちゃんの大好きなデリバリーとろっか!という私の提案に喜んだ息子は【出前館】のアプリを検索していた。

脳に酸素がいかなくなり始めたことで眩暈が発生し、肺に水がたまることで呼吸がしんんどくなりながらも、

「ママは何が食べたい?」

「パパはどれがいいかなぁ?」

そう言って、自分のことよりもママとパパのことを先に気遣ってくれていた。

「いいんだよ、息子ちゃんが好きなものを頼めばいいんだよ。ありがとうね、優しい子。ママのたからもの。」

いつものようにそう言うと、嬉しそうに出前館の検索を続けていた。

「そういえば、ママと息子ちゃん2人でコメダに行ったこともあったね、楽しかったね♪また絶対一緒にいこうね♪」

ふと思い出し、検索を続ける息子に話しかけた。

もう一緒にコメダに行けないことも、その夜のデリバリーももう厳しいことも私には分かっていた。

それでもいつも通り明るい声で、コメダに行ける未来が当然のごとく息子に訪れるように話しかけた。

しんどそうにして笑顔が出なくなっていた息子が、にこーーーーーっと笑った。

それが、私が見た、私だけが見た息子の最後の笑顔だった。

まるで映画のエンドロールだったな

最後の君の笑顔は

多くの人を魅了してきた息子の笑顔。

それからおよそ半日後、息子は眠ったまま、厳密に言うと薬で深く眠らせてもらったまま静かに息を引き取った。

医療機器が必ず必要で身体も弱い息子にとって、「お出かけ」すること自体が特別で嬉しいことであった。

感染症に弱く命に関わるため、怪我に大いに注意しないといけないため、人混みは避けて生きてきた。

できれば障害者用駐車場または広い駐車場があること(そしてあいていること)・混んでない時間帯であること・医療機器も一緒に持ち込める空間的余裕があるお店であること・走り回る子がいないこと・バリアフリーであること・天気が良いこと・息子の体調が整っていること、たくさんの条件がそろってようやくお出かけができる。

そんな息子にとって、ママと2人で喫茶店へ行き美味しいケーキを食べたこともまた「特別で嬉しい出来事」だった。

ママとコメダへ行ったことを息子は日記に書き、また行こうねと話をしていた。

頭に浮かべる映画のエンドロールは人それぞれだが、息子の最後の笑顔・息子との最後の会話は息子と共に歩んできた旅のエンドロールそのものだった。

「ママ、だーいすき」

「ママも息子ちゃんのことがだーいすき」

「ママは息子ちゃんのことが宇宙で一番大好きだよー」

「えへへっ」

1日の中で何度となく繰り返される母と子の日々の会話を夫は「この2人は飽きもせずまたやってるわ」とそこそこ冷めた目で見ていたし、出かける前にこのやりとりが始まった時などは「・・・ねえ、早くしてくんない?」とツッコミを入れていた。

でも、中学生になってもなお続いていた息子と私のしつこいくらいの想いの伝え合いこそがまさに

それでもぼくらはあいしてる あいしてる あいしてる

懲りずに飽きずに

Love Love Love Love Love Love Love

あいしてる

この歌詞そのものだった。

昭和二十三年法律第百七十八号 国民の祝日に関する法律によると、5月5日こどもの日を次のように定めている。

『こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。』

「あいしてた」ではなく、「あいしてる」。

「ぼくらは」互いに「今も」想い合っているんだよ。

あちら側にいる息子がこちら側にいる私に、「息子ちゃん大好きだよ」と今でも毎日息子を想い言葉に出している私に、なんとかして息子自身の想いを伝えようとしてくれたんだと信じている。

本文内歌詞引用:【Ado】永遠のあくる日 より

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藤子

散文家。2025年、13歳の息子を自宅で看取った昭和57年生まれ。おしゃべりな脳を、散文に。

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