今日はインスタグラムアカウントの削除をしました。
もともと情報を取るために見てるだけの使用で、投稿・いいね共にしたことがなかったのでいよいよ不要だなど思いました。
覗いているだけでも情報過多になってしまっているなと感じていたし、見るつもりのなかった投稿をダラダラと見続けて時間の無駄も多い。
投稿のコメント欄をのぞけばあっちこっちで喧嘩ばかりしている。
投稿に対して自分の意見を押し付けたり批判したり嘲ったり。
そこにまた第三者が参戦して喧嘩をおっぱじめ、投稿主も喧嘩したり謝ったりもうカオス。
SNSで受けるストレスよりも承認欲求のほうが勝つのでしょうか。
SNSだからこそ早く得られる災害情報等もありますが、それ以上の負の面のほうが私にとっては強いなと感じました。
いつ死ぬか分からない限られた命のなか、他人の承認欲求や憎悪にまみれた狭い蜘蛛の巣の世界に時間を使うのは馬鹿らしい。
今年は国家資格取得のため受験があるので、終活とあわせて試験勉強も集中しないといけません。
久方ぶりの資格試験勉強。
最後に勉強したのは、6年前のファイナンシャルプランナー技能試験でした。
体調の関係であまり学校に通えなかった息子のために自宅学習でお勉強を教える程度の頭の使いかたしかしてこなかったので、全く脳みそが働きません。
人間こうして脳が衰えていくんだなと実感しています。
インスタ削除以外に息子の遺品整理もしました。
息子が亡くなったあとすぐ、息子のものを精査して大量に捨てていたので残っているものはそんな多くはないのです。
が、やはりまだ手放せない・手放したくないものもありました。
もう手元になくても大丈夫だと心から思えるようになったタイミングで少しずつ手放していこうと決めていました。
最近は息子が使っていたドリル類をどんどんと手放しています。
お勉強が好きで特に算数・数学が好きだった息子は、亡くなる前日までベッド上でドリルを開いて問題を解いていました。
亡くなる2週間~10日ほど前から脳に酸素が行きづらくなり、起きていると目眩が増えて何かを見たり問題を解くために脳を使うのがつらくなっていました。
鉛筆を持ってドリルを始めても、5分もしないうちにクラっとして「あぁっ・・・」と目元を押さえてベッドの背にもたれかかる。
「ぼく暗算で解くので、ママは問題を読み上げてください」
そう言ってベッドで横になる息子に問題を出したものです。
そんな息子がこれから解いていこうとワクワクした気持ちでゲットしていた大量のドリルを、この1年手放すことができませんでした。
「おうちでママがお勉強を教えてくれる」ということで【ママ学校・ママ先生】と名付けて小学校時代から2人でずっと楽しんできた思い入れもあり、ママ先生である私が残りを解き終わったら手放そう。
これを弔いの一つにしようかな、そんな気持ちでいました。
が、教えることはできるものの「好きか嫌いか」で言えば私は算数・数学が大っっっ嫌いなので全く解く気になれず。
でも、ドリルを手にすると手放すこともできず。
それが数日前に久しぶりにドリルを引っ張り出してきてパラパラめくってみると・・・
「よし!(๑•̀ㅂ•́)و✧息子ちゃんはすごい子だ!こんな難しい面倒くさい計算を丁寧に毎日毎日解いて!すごいぞ!そしてママはむり。スマンけどちょっと捨てさせて。」
という非常にアッサリとした気持ちになりまして。
「ありがとうね。」そんな気持ちで、息子が一生懸命に書いた沢山の数字とともに大量のドリルとサヨナラできました。
とはいえ亡くなる前日の日付が書かれているものはまだ手元に置いておきたい気持ちなので、数冊だけ残っています。
息子が亡くなってからまだ1年なのか、もう1年なのか。
時間の感じ方は人それぞれだし感情も人それぞれ。
1年前の感情と半年前の感情と今の感情も違います。
ただずっと変わらないことは、息子の死はネガティブなものでは全くなく、与えられた寿命を精一杯まっとうして生ききった素晴らしい人生だったこと。
どれだけ生きるかではなく、どう生きたかを身を持って示してくれた尊敬する私の師匠であること。
できること以上のことをやりきったと自信を持って言い切れる親子だったこと。
親と子という関係性ではなくなるだろうけど、また必ず会えると確信していること。
まだまだたくさんあるけれど、とにかくポジティブに息子との死別・息子の生き様・私の前向きな感情を出会う人に語っています。
押し付けるように聞かれてもいないのに語ることはしませんが、流れの中で「去年息子を亡くして」なんて普通に話すし、そこから色々と聞かれることはつらくもない。
むしろ、話を聞けてよかった・そういう考えかたの人に出会えてよかったなどなどポジティブな感想しか聞きませんから、話して良かったな~と毎度思うのです。
心が抉られるほど大切な人を亡くすというのは誰しもが経験することじゃないかもしれないけれど、きっと多くの人が経験することだと思っています。
それがパートナーなのか、親なのか、親友なのか、子供なのか。
相手が誰なのかは人それぞれですが、普段から「死はすぐそばにあるもの・誰にでも平等に訪れるもの」と意識することで共に過ごす時間を大切に出来ると思いますし、死はネガティブなものではなく「現世を精一杯生きた人が還れる場所」と捉えていれば悲しみは減るのではないでしょうか。
私の知ってる息子の姿の息子に会いたくなって寂しさを感じることはありますが、悲しさというのは息子が亡くなってから感じたことはありません。
苦しいのも痛いのももう1つもなくて、自由に動き回れるね、そっちの世界でもたくさん可愛がってもらってるよね、と思えるからです。
更に時間が経てば、息子が遺したモノへの執着はもっともっと薄れて手放していくことができると確信しています。
それまでは、最期のドリルや大好きだったミニカーや多くのファンがついてくれたアート作品などを手元に置いておこうと思います。